英語教師として大切にしたいことを『坊ちゃん』から再確認


どんな教師になりたいか?

学習過程で次のステップに上がるための細かいフィードバックは常に欠かさないようにしています。20年もやっていると
「あの先生、めっちゃ怖いで」(若い子には特に怖く映るのでしょうか…)とか
「クラスで泣く子が出るんやって」(確かに悔し泣きは何度も見ました)とか
「発音教える時、口の中に手入れられるんやって」(それはいくらなんでもないです笑)とか
「ハイヒールで蹴られるんやって」(噂って怖いですね。そんなことしていたら教壇に立ててないです笑)とか
噂は噂を呼び、尾が付き、葉が付き、めぐりめぐって私の元へ帰ってきます。

どんな教師になりたいか、と考えたことは実はあまりないなと感じます。気がついたらこういう教師になっていた、という方が近いです。

でもいつも気になるのは、私に関する噂ではなく(面白く聞かせていただいてはおりますが)、むしろ、

生徒が伸びたかどうか。
生徒が前とは違う自分になれたと感じているかどうか。
生徒がそれに満足しているかどうか。
そして、その過程に、私自身がどう関わったのかどうか。


それ以上でも以下でもなく、20年間走ってきたように思えます。

教育の定義も理想もたくさんあるでしょうが、私の場合は、誰に聞かれても真っ先に言うことが、きっとこれなんだろうなと思います。

教育の過程とは

夏目漱石の『坊ちゃん』に出てくる「坊ちゃん」自身も、教職についています。その気持ちがリアルタイムでわかる時もありました。

”ぜんたい中学校へ何しにはいってるんだ。学校へはいって、嘘をついて、ごまかして、蔭でこせこせ生意気なわるいいたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと勘違いしていやがる。話せない雑兵だ。”
(『坊ちゃん』夏目漱石 角川文庫(平成21年 改版十版)p.51より)

言葉は悪いけれど、言いたいことはなんだかわかる。
コースを修了すれば教育を受けたもんだ、
それで学びは終わりなんだ、
と勘違いされないように、生徒と話をしていきたいと思います。

大切にしたいのは、修了したという結果だけではなく、そこまで来た学びの過程と、一つの節目を迎えた後の歩み方、なのでしょうか。

泣いて叫んで落ち込んで、
それでも顔を上げて前進して、
できた・できないの一喜一憂を繰り返して、
できる自分の能力を見つめ直し、
できない自分と付き合い直す。

その泥臭い過程が、私の教室では見られます。
そしてその過程を、どうでもいいということにはしたくないと思うのです。

そして感謝したいのが、
そんな私の教師としての思いを真摯に受け止めてくれる生徒がいてくれること。

ゆとりがなんだ。さとりがなんだ。
「日本人ってほんとに英語しゃべれないよねー」がなんだ。
それを蹴飛ばすくらいの「過程」を、毎日教室でともに生み出しています。
それが教育でないならば、
何を教育と呼ぶのだろう。
それとも、こんなことはもう、
昭和の昔に置き去られてきたことなのだろうか。

ということをふと綴ってみたくなった日。


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